私の転職活動① エピローグ

転職活動
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超就職氷河期の就職と転職活動

現在新型コロナで内定取り消しや来年度の採用凍結が表明され始めている。去年までは大学へ説明会に赴いても人が集まらなかったり、新人採用の募集に応募が集まらなかったりで超売り手市場が続いていた。入ってきた新人も1社のみ採用面接で受かったなど特に苦労しなかったそうだ。超就職氷河期で面接に落ちまくり、就職先が決まらないまま卒業した私にとっては世代が違うだけで何故こんなに違うのかと愕然としていた。それでも電気回路の設計者を目指して転職を繰り返して現在の地位まで上り詰めることが出来た私は幸運なのだが。

来年から始まることが見えてきた新就職氷河期世代の人へ超就職氷河期を乗り越えてきた私の就職・転職活動が少しでも参考になればと思う。

超就職氷河期の就職活動

超就職氷河期である2000年大学卒の就職活動は現在のコロナショックのレベルなんてものではなかった。何年にも渡り新卒採用を絞って来ており、就職留年者が大学留年してでも就職活動を行っていた。また当時から給与搾取会社と言われ千人規模で新卒を採用していた派遣会社でさえ、その千人規模の新入社員に無給や給与大幅減での自宅待機、もしくは退職を迫っている状況。私は理系大学で当時は理系大学に行けば就職には困らないという神話が流れていたが、この当時は先輩がその自宅待機状態となっており顔面蒼白となっていたのを覚えている。

そのような状況の中、就職活動を始めるが前年まであった大学推薦枠での採用募集がことごとく採用中止。一般枠での募集しかない上に採用人数が絞られており、且つ、普段は受けないような大学の面々が募集をしていた。当時は今より学歴重視社会であったため、書類選考の時点で足切りされる日々を過ごしていた。履歴書は手書きが印象が良いという神話も残っていたので所謂コピペの作業では済まず、数年前まで支払われていたと言われる交通費も支給されず、説明会に行かなければ今のように情報も入手できずのさんざんな時代でした。

就職活動でのお断り事例

私がはっきり覚えているのは2社の採用面接で1社目はパナソニック系の子会社。最終面接まで行ったものの、「御社に入社しこういった事を実現した!」と希望を語ったが「ふーん」。だけでお祈りメール。もう1社は三菱系の子会社。会社説明に参加し先輩社員と面談を行い、推薦状を教授にお願いして書いて貰い郵送。その直後、既に別の人で採用が決まったので面談も辞退させて欲しいとのお断りの電話があり。推薦採用で推薦状を書いて貰ったにも拘らず面談すらさせてもらえず教授に申し訳が無かったのを覚えている。しかし友達に聞くと先に教授にお断りの連絡があったらしく、教授が私の方へ連絡するのが筋だろ、と怒ったという経緯であると知り更に申し訳なさが増し顔を合わせずらかった。

大学の就職課とはいったい?

さらに怒りを覚えたのは大学の就職課。9月ごろに就職出来ていない生徒を一斉に集めて、就職出来ていないのは選り好みしているからだと罵倒。大学の就職課が選んだ就職先に募集しないのであれば就職する意思がないとみなす。その場合、就職しない旨の文書を就職課に提出しろ、とのこと。どうやら就職しない旨の文書を出すと大学の就職率が良くなるということらしい。ちなみに大学の就職課が選んだ職種というのが製造ラインの作業員などで休日は日曜だけ給料も基本給14万程度のところ。これが大学の就職課のやり方か!と憤った事件でした。

☆振り返りポイント

大学の就職課を信頼しすぎてはいけない。所詮、自分たちの成果を上げるために働いている人に過ぎない。ただ過去の経験を持っている一人のアドバイザー程度の認識で利用できると事は利用する意識でOK!

大学での就職活動の結果

結局その後も社員数5名程度のベンチャー企業などにも断られ続け、就職できないまま大学を卒業するのだが、これは私が特別といことではなく、うちの研究室でいうと50%が就職できないままの卒業という状況。可哀そうだったのが内定が決まっていた人(女性)が卒業式直前で内定取り消し。遠方地だったこともあり引っ越し先など諸々決まっている状態であったため、晴れの舞台である卒業式にも急遽参加できず。自分自身も就職出来ていなかったが、地獄行きだなと徐々に認識していった人(私)と天国から地獄に落とされた人(内定取り消しの女性)では私から見ても残酷だなと思っていた。